第1話

朝礼というのは高校時代を最後にやったことのない人も多いかもしれないが、私の職場では日常的に行われていた。とはいえ、職業柄ここでの朝礼は単なる連絡の場ではないのだが。

「おはようございます。宮前さん早く職員証を通してください。坂上くん酒瓶はしまいなさい。今日の朝会を始めます」

坂上逆子(さかのうえのさかこ)は20代序盤の青年で、細身だが筋肉質な身体に昭和の男前風な顔が乗っかっているような男である。決して仕事に不熱心なわけではなく勤務実績も悪くはないのだが、「就業規則に飲酒禁止が書かれていない」というのを良いことに常時日本酒の一升瓶を抱えている困った男である。

「さて早速ですが実調案件です。熊谷さん宮前さん」

指名された二人は無意識の内に身構えている。実調、すなわち実地調査というのはこの職場の基本業務の一つである。調査と言っても魔法師を動員していることからわかるように、魔術を使用した捜査や、状況次第では戦闘に発展することも珍しくない。二人が緊張するのも無理からぬことだろう。

「今日の実調は早稲田~戸山地区です。バカ学生の多い所ですが間違って攻撃しないように気をつけてくださいね」

「かしこまりました。ところで今回の調査対象はどんなモノですか?」

熊谷さんが鈴を転がすような声で問いかけてくる。私は平然と答えた。

「妖怪詰云です」

「「妖怪詰云」」

宮前さんと熊谷さんの声が重なる。

「道行く女性の爪にウ○コを塗りたくって、それによって発生する絶望する気持ちを吸収して成長する妖怪です」

「うわあ何その変態。絶対かかわりたくねえ」

横で聞いていた米長コマンダーが思わずつぶやく。

「え~とその妖怪詰云というのは所業を聞く限り人間ですよね?警察の管轄ではありませんこと?」

露骨に嫌そうな宮前さん。

「いや~警察さんサイドもこんなクソを掴むような…じゃなかった雲を掴むような話じゃ出動のしようがないでしょうからね。というわけで実調お願いしますね。書類はこっちで調えておきますので」

ともかく出動命令が覆るわけもないので、私は話を強引に打ち切った。

同日正午頃、早稲田通りを歩く熊谷さんと宮前さん。二人は既に何名かの女性に聞き取り調査を行い、被害状況を確認していた。爪に汚物を塗りたくられ、絶望した女性達は口を揃えて「同年代くらいの、爪の汚い女に襲われた」と証言していた。

「あら、あの女性…」

異変に気付いたのは熊谷さんだった。二人の100メートルほど前方には一人の女が立っている。遠目には髪の長い女に見えるが、醸し出している雰囲気は明らかに人間のそれではなかった。二人の視線に気付いたそれが反転し、およそ人間には出せないスピードで走り寄ってきた。その爪は黄土色に染まり、手には何やら汚そうなものが握られている。

「どうやら人間の言語が通じる相手じゃありませんわね。やりますわよ宮前さん」

言うが早いか持ってきた刀を構える熊谷さん。徐々に詰云との間合いが詰まってくる。すれ違いざまに一太刀。まるで土壁を切るような鈍い手ごたえがあって刀身を見ると、何やら酷く汚いものがベットリ付着していた。

「ひゃあっ!?」

驚いて素っ頓狂声をあげる熊谷さん。その隙に乗じるべく、詰云は熊谷さんの左手首を掴む。そして熊谷さんの手入れの行き届いた美しい爪に汚物を塗りつけようとする詰云だったが―

「伏せて!」

タブレット端末に魔術の起動コードを入力しながら宮前さんが叫ぶ。次の瞬間、白い力線が詰云を正確に捉え、10メートルばかり弾き飛ばした。

「大丈夫?」

衝撃で転んだ熊谷さんを助け起こす宮前さん。

「ええ、でも手首が少し汚れてしまいましたわ。ひどい臭いがします」

「洗えば落ちるでしょう。それはそうと、アレどうします?」

「…とりあえず私が凍らせてみますわ」

刀に魔力を注入する熊谷さん。宮前さんはそれを援護すべく、拘束魔術を詰云に向けて放つ。動きの止まった詰云に向けて白刃を振る熊谷さん。距離は5メートルばかり離れており、どう見ても間合いの外なのだが、実際に刃を当てるのではなく切っ先から編み上げた魔術を放出するのである。次の瞬間には、黄土色の塊だった詰云は凍り付いて青白い塊になり―地面に倒れた衝撃で粉々になった。

『調査報告書 担当:熊谷・宮前

妖怪詰云なる未確認生命体ついて、馬場口交差点付近路上にて発見・交戦し、これを撃破することに成功。攻撃力・耐久力ともに特段の脅威は無し。被害者もその後の健康被害は確認されず。ただし被害女性から奪取されたと思われるマイナス・エネルギーの使途は不明であり、今後多角的な調査・解明が必要であると思われる。

追記:妖怪詰云は女性の手指の爪への執着がみれらる。今後の調査においては男性職員の派遣が妥当であると思われる。』

熊谷さんと宮前さんの報告書はなんだか今回の一件への不満が読み取れなくもなかったが、私はとりあえず気付かなかったことにして決済の印鑑を押した。

「これにて一件落着、と」

当分カレーライスは口にできませんわ、私はどちらかというと羊羹がダメです、とトラウマを語る熊谷さんと宮前さんに会釈をし、職員証を通した私は足早に家路についた。

(つづく)