シン・ゴジラの感想的なやつ

あれだけ書かない書かないと言っていたが皆の感想を読んでいて我慢できなくなったので書かせていただく。こいついつも前言撤回してんな。変節者と叩いていただいて構わない、反省しているので。内容のネタバレも無意識にやってしまう可能性が高いのでまだ『シン・ゴジラ』未視聴の方は読まない方が良いと思う。

私が観てきたここ数年の日本製の特撮SF映画は、正直あまり面白くなかった。というか酷かった。進撃の◯人とか。もはや特撮SF映画はハリウッドのものになりつつあったと思う。『パシフィック・リム』とか超面白かったし、2014年版ゴジラでさえ直近の和製特撮SF映画では勝負にならないレベルだった。撮影技術では日本も負けていないはずだが、脚本やキャスティングからもう負けていた。広告会社のせいだと言う人も多い。私は詳しいことは知らないがそういう面もあったんだろう。

そんな中、アニメ界で実績を残した特撮オタクの庵野監督がゴジラを作るというから、これはもう期待値の高さが尋常ではなかった。日本特撮映画の不振を一発で全部ひっくり返してくれるようなゴジラが出来るに違いないと思った。

そうした期待の中『シン・ゴジラ』を観に行ったわけだが、概ね期待通りかな?と言った出来栄えだった。決して期待以上ではなかったが、これはそもそも期待値が上がりに上がった状態だったからであり、作品が悪かったのではない。エベレストより低いからと言って富士山を駄目な山だと言う登山家はいないだろう。

まず序盤のゴジラ初期形態が東京に上陸して這いずり回っていたシーン。怪獣映画らしい「ただ存在するだけで死人が出る怪獣」の描写で視聴者に遊びじゃねえんだぞ、と見せつけてくる。ゴジラの危険ドラッグをキメたような目付きと、生焼けの肉みたいなグロテスクなエラが不気味さを出していた。ゴジラが単体で進化する描写は庵野監督のカラーが出ていたが、オールドゴジラオタクとしてはアレは要らなかった気もする。だが決して不快な演出ではない。庵野監督の色を出すための必要経費だろう。

進化したゴジラ自衛隊の戦いは流石に特撮オタク庵野監督と言える出来栄えだった。突拍子もない架空兵器も良いが、やはり既存の自衛隊戦力を活躍させたいのが特撮オタクの性分というものだ。さすが庵野監督と思ったのは、自衛隊の兵器の威力の凄まじさ(爆発の轟音や周辺建造物への被害)を見せながらゴジラは傷一つ負わないという、自衛隊を立てながらもゴジラの耐久力をまざまざと見せつける演出の巧さである。

正直に言うと、私は庵野監督の作品は好きではない。野球で言えばグネグネ、ウネウネと動く癖球のようなものであり、受けるキャッチャーもどうしていいかわからない。少なくとも、胸のすくような勢いのある直球ではないのだ。『シン・ゴジラ』についてもその点は不安だった。だが杞憂だった。相変わらず勝負処では球を動かしてくるが、基本は速球での真っ向勝負。庵野監督にこんな組み立てが出来たのか、と正直驚いたほどだ。

さて本題に戻り、ゴジラ最終形態の話をさせて欲しい。今作のゴジラはとにかくデカい。周囲のビルは高層化の一途を辿っているので当然だが、デカいだけでなく生物感が無い。恐らく今作のゴジラに違和感を覚えたゴジラファンは多かったと思うが、その一因がコレかもしれない。今までのゴジラは『怪獣王』の肩書きに相応しい、いかにも陸上生物の究極体のようなデザインだった。話せばわかるというか、血の通った生物だった。だがシン・ゴジラは違う。究極生物と言いながらどことなく無機質で、怪獣というよりは死そのものが具現化したような姿だった。私は正直ゾッとした。いい意味で。

円谷英二ゴジラは畏敬の対象になるべきゴジラだった。破壊に悪意がなかったし、必要になれば人間に力を貸すこともあった。八百万の神の一角を占めていてもおかしくない存在だった。庵野監督のゴジラはそうではなかった。悪意ある破壊者。人類に仇なす侵略者のような存在だった。それこそウルトラマンに出てくる侵略者のイメージに近い。庵野監督作品に登場する「使徒」を連想した視聴者も多いのではないだろうか。背中からビームも「神格のあるゴジラ」のファンにとっては余計な演出だが、「庵野作品の敵」としての演出と見れば実によく出来ている。私はこういう演出は嫌いだが、それでもシン・ゴジラの演出としては評価すべきだと思う。

ゴジラの姿形の話ばかりしても不毛なのでストーリーについての話もしたい所だが、この話題に関しては数多のオタク達に語り尽くされている感がある。確かにシン・ゴジラはストーリーが骨太で登場人物たちのインパクトは強烈だった。正直に言って、邦画のしかも特撮映画で未だにここまでしっかりとしたドラマが作れるのかと驚いた。庵野監督が集めたスタッフが良かったのか邦画をスポイルしている利権集団が嘴を突っ込まなかったおかげかは不明だが、とにかく進行の良さが視聴者を引き込むのに十分過ぎた。怪獣映画の鉄板とも言うべき人間vs怪獣のバトルというよりも、皆一致団結して大災害に立ち向かうドラマのようだった。

やたら長い会議に癖の強い政治家たち、何を考えているのかわからない学者、アメリカの外交官などの描写が『シン・ゴジラ』を怪獣映画ではなくディザスタームービーにしたのかもしれない。逃げ惑う人々も、歴代ゴジラを踏襲しながらも「違い」が見え隠れしていた。ゴジラシリーズは歴史が長いので、他の作品では逃げる民衆の反応も「まーたゴジラ来たよ」みたいな感じなのだが、シン・ゴジラでは未知の災害に直面した感が強かった。庵野監督のこだわりが伺える。

人間は知恵と総力を結集してゴジラに立ち向かって行く。他のゴジラ作品ではあまり見られない展開だ。人類の敵となったゴジラと闘う作品は他にもあるが、大抵闘うのは一握りの天才、秀才、選ばれし者達である。シン・ゴジラでは中心に立って闘うのはやはり一握りのエリート達ではあるが、あくまで人間の枠内に収まった連中である。それにゴジラに対抗する手段がいい。凝固剤を口に流し込むというのは如何にも非力な人間達の怪物に対する弱者の戦法である。過去にも体内から削岩弾で削られて自爆したゴジラはいたが、あの作戦を実行したのは屈強でヒロイックな職業軍人だった。

庵野監督は撮影に際し、「円谷英二は存在しなかった世界」「怪獣という概念がない世界」という設定で撮影に臨んだという。俳優たちの演技が光ったのもそれが一因かもしれない。怪獣映画ではなく、普通のドラマを撮影するような感覚だったのではないか。そうすることで演技の幅が出て、締まりのある作品になったのかもしれない。逆に中尾彬宝田明など昔のゴジラを知る俳優があまり起用されていなかったのは、意図的に過去のゴジラとの世界の隔絶を示していたようにも思える。

音楽の使い方も、とても庵野監督らしさが出ていたのではないか。後輩のA君いわく「曲の選び方をかまんまエヴァンゲリオンだった」そうだ。私はエヴァに関心があまりなかったのでよく覚えていない。ただ一つ文句を言うとすれば、伊福部昭が初代『ゴジラ』のために作った曲をジャブジャブ使いまくったことか。もちろん気持ちはわかる。ゴジラのテーマも自衛隊マーチもおよそ特撮邦画に使われている曲としては最高傑作だと私は思っているので、庵野監督もおそらくあれらの曲が大好きなのだろう。しかしあれらの曲は円谷英二のものであり、怪獣王ゴジラのためのものだと私は思う。

シン・ゴジラ』と銘打ったからには楽曲も新調して欲しかったしすべきだったと私は思う。勿論ハードルが途轍もなく高いことはわかっている。だが『シン・ゴジラ』を作った庵野監督なら出来たのではないか。『エヴァンゲリオン』を作った時の庵野監督には作れなかったとしても『シン・ゴジラ』の庵野監督なら作れたはずだ。せっかく従来のゴジラとは一線を画した『シン・ゴジラ』なのだから、そこは頑張ってほしかった。

シン・ゴジラ』を観た感想としては、今までのどのゴジラ作品とも違うアプローチ、違う撮影手法、違うシナリオ構成にもかかわらず、史上最も1954年の『ゴジラ』の領域に近付いた作品なのではないかと思う。私は庵野監督が本気で作るゴジラ作品に対する期待と、近年の特撮邦画の惨状からくる不安の両方を抱えて観に行ったが、よほど上手く芸能マフィアどもの介入を抑え込んだらしく純粋に面白さが溢れてくる映画に仕上がっていた。

少なくとも直近10年くらいの特撮怪獣系の邦画では文句なしのナンバーワンだったし、ハリウッドが作った2014年版ゴジラにも『パシフィック・リム』にも勝っていたと思う。日本でも久々にハリウッドの本格派作品に対抗できる作品が作れたというのは今後に希望が持てるかもしれない。正直ゴジラ映画としても史上2位の傑作と言って過言ではないかもしれない。ただ1954年の『ゴジラ』には敵わない。あれは円谷英二が作った神話だ。比較対象にはならない。