第42話

事あるごとに事件の舞台として描かれる新宿副都心。過去に多くのアニメで、ゲームで、映画で、常に舞台として用いられてきたこの街だが、実際に大きな騒動が発生したことはそれほど多くない。最大級の事件は昭和59年のゴジラ襲来(後に特生自衛隊における対怪獣戦の切り札となるスーパーXの初陣であった)だが、これ以降の30年間は新宿では怪獣や怪物の類による大規模な事件は発生していない。

「今回は新宿の繁華街の裏通りでの怪生物の目撃情報です」

事件は発生していないが怪異の目撃情報は少なくない。何しろ人通りの多い街だ。人に関わるタイプの怪異・怪物の噂は絶えることがない。それに新宿は東京屈指の坩堝のような街であり、人もモノも雑多な町である。新宿で働いている亜人も多く、亜人福祉課の出張所もあるほどだ。

私が読み上げた実調依頼書に基づき、早速現場へ向かう矢吹係長、島村さん、神木田さん、そして宮前さん妹の4人。なお我々の新宿支署は名前だけは新宿だが小滝橋にあり、新宿の喧噪とは今一つ縁がない。4人は怪異の目撃情報のあった、西武新宿の裏の古ぼけた通りを歩いていく。

「ナオン…ナァオン…」

どこからともなく猫の鳴き声に似た音が聞こえてくる。戦歴豊富な矢吹係長がとっさに身構えた。薄暗い裏路地から姿を現したのは、黒い影のようにも見える不気味な怪物であった。人のような形をしているが、全体的に角ばった印象がありどこか禍々しい。身長は2メートル近くあるだろうか。

鎮歩スリスと呼ばれる怪物。スリスというのはどこか遠い異世界にあると言われる金属世界の住人として物語に登場する架空の生物である。この鎮歩スリスは女との出会いを果たせぬまま死んでいった者たちの妄執が、そのスリスの姿に生まれ変わった物であるとされている。

「ナオン…ナオン…お、女ァ!」

女性陣を見つけ、物凄い勢いで飛びかかってくる。鎮歩スリスは女を見つけると生殖行為を狙って襲いかかる危険な怪物だが、その一方で男性の気配がすると警戒して姿を現さない。今回の調査に女性職員しか動員されていないのはそのためである。(そうでなければ、豊之内に一撃で仕留められておしまいなのだが)

「間合いが近すぎる…」

魔術弓で射撃を試みる矢吹係長だったが、鎮歩スリスが予想以上に素早く距離を詰めて来たため十分な間合いが取れていなかった。黒い影の如く、一行の頭上に飛びあがるスリス。

「この…変態野郎があっ!」

神木田さん、魂の叫びと共に火球をぶつける。鎮歩スリスは飛び退いたが、それほどダメージを受けた感じではない。思いのほか頑丈な身体をしているのかもしれない。

「アア…キモチィ…キモチィ…」

女性に構ってもらえて性の悦びでも感じているのか、不気味な声を上げながらクネクネとのたうち回るスリス。そのおぞましい姿に、後ろで見ていた島村さんは思わず顔を背ける。間合いの取れた矢吹係長は魔術弓を展開し直して、のたうつスリスに照準を合わせようとする。

だが鎮歩スリスはギリギリのタイミングで矢吹係長の攻撃をことごとく躱し、軽快に彼女たちの周りを飛び回る。かなりの身体能力である。なんとか動きを封じる方策はないものか。思案に暮れる矢吹係長。その時彼女はある作戦を閃いた。

矢吹係長に耳打ちされた島村さん、立て続けに水流を放射していく。しかし相手は矢吹係長の「風の矢」さえ躱せる鎮歩スリス。弾速の劣る水流が命中するはずもなく、周囲に無数の水溜まりを作るばかりであった。やがて島村さんの水流攻撃が止むと、鎮歩スリスは待っていましたとばかりに飛びかかろうとした。

しかしスリスは島村さんの手前1メートルほどの所に着地しようとして思い切り足を滑らせた。前のめりに1回転して飛び退るスリス。島村さんの作った水溜まりを宮前さん妹が凍らせていたのである。そこを見逃さず、立て続けに矢を射かける矢吹係長。スリスは器用に氷の上を滑走して、攻撃をすんでの所で回避する。

多数ある水溜まりの中の一つへ鎮歩スリスが着地した時、突然氷が割れて足がスッポリと嵌った。スリスが驚愕の表情で足元を見ると、水溜まりの下にマンホールの金属製の蓋が見えた。神木田さんがその蓋を炙り、氷の下を融かしていたのである。気づいた時にはもう後の祭り、すかさず宮前さん妹が水を再凍結してスリスを足をガッチリと固定する。

「全く手のかかる奴ですねあなたは」

矢吹係長はそうつぶやくと、風の矢を撃ち込んだ。自らの死を悟り目を閉ざす鎮歩スリス。矢吹係長の放った矢は正確にスリスの痛覚神経を破壊し、続く第二射がスリスを永遠の眠りに就かせた。一切の苦痛を与えることなく。

「随分と気を使った殺し方をしますね、係長」

不思議そうな表情をする宮前さん妹。

「まあ、この怪物に恨みとか敵意があったわけじゃないからね」

疲れたような表情で、それでも柔和な笑みを崩さず答える矢吹係長。実際のところ、この手の残留思念系の怪物は苦痛に満ちた死に方をすると姿形を変えて再び現れるリスクが少なからずあるため、苦痛を与えず死なせるという処置は間違っていない。

「姿形を変えても、また現れてほしい人もいるものですけどね…」

神木田さんがポツリと呟く。過去の抗争の残党として命を落とした友人のことを思い返しているのだろうか。隣にいた島村さんはヘトヘトだったせいか、それには気付いていないようだった。

スリスの亡骸を本庁の研究員に引き渡し、4人は支署への帰路についた。春を待つこの季節は日没が徐々に遅くなっていく。先週までならもう真っ暗になっていた時刻だが、まだ夕焼けが残っている。西武新宿から小滝橋へ至る道路を歩く4人であった。

つづく